はじめに

誕生 成長と出家 さとり 初めての説法 伝道 入滅 仏教・真宗のコーナートップヘ

 

入滅:クシーナガル(クシナガラ)

■故郷への旅
 35、6才でさとりを開き、説法を決意されてから44、5年間、インド東北部の 各地に布教伝道されたお釈迦さまも80才のご高齢となっておられました。お釈迦さまは自らの身体について、次のように付き添いのアーナンダ(阿難)むかって話しておられます。

アーナンダよ。わたしはもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢は八十となった。譬えば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いて行くように、恐らくわたしの身体も革紐のたすけによってもっているのだ。(大パリニッバーナ経,p.62)

 その80才のお釈迦さまが、ラージャグリハ(王舎城)の霊鷲山から生まれ故郷のカピラヴァストゥに向かって旅行を決意されます。もちろん歩いて。すでにお釈迦さまは教団のことは弟子たちに任せて、自らは隠居のようになっておられたのでしょうか、旅のみちづれは、ほとんどアーナンダ(阿難)一人だけだったようです。お釈迦さまは教団(サンガ)に対して、自分が統率しているとか自分の所有であるというようには考えておられなかったようです。この旅路の途中で、お釈迦さまは、

向上につとめた人は『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とか思うことがない。(同上)

とおっしゃられています。「親鸞は弟子一人ももたず候ふ」という、『歎異抄』に引かれた親鸞聖人のことばを想起させることばです。

 お釈迦さまの旅は、それまでもそうであったように、旅先の各地でさまざまな人々に法をお説きになりながらのものでした。ラージャグリハからカピラヴァストゥへ向かう途上、ガンジス河を渡ってヴァイシャーリー(パーリ:ヴェーサーリー)を過ぎ、病に苦しみながら、マッラ国のパーパー(パーリ:パーヴァー)というところに着いたときのことです。パーパーではチュンダという金属細工師(鍛冶工)に食物の供養を受け、法を説かれたのですが、お釈迦さまはそのとき、パーリ文によれば「スーカラ・マッダヴァ」という食物を食されたのが原因で、「激しい病いが起こり、赤い血が迸ほとばしり出る、死に至らんとする激しい苦痛が生じた」といいます。「スーカラ」とは「野豚」のことであり、「マッダヴァ」とは「柔らかい」という意味で、したがってパーリ語「スーカラ・マッダヴァ」とは「野豚の肉」という理解があるほか、「野豚の好むキノコ」など、さまざまな解釈があります。しかし現在のところでは、これを特殊なキノコを料理したものと考える見解が優勢のようです。
 激しい下痢におそわれながらも、お釈迦さまは現在地名でクシーナガル(サンスクリット語ではクシナガリー/クシーナガリー/クシナガラ、パーリ語でクシナーラー)を目指します。病に苦しみながらも、お釈迦さまは鍛冶工チュンダのことを思いやって、チュンダへのことばをアーナンダに託します。チュンダはお釈迦さまに最後のお供養の食物を施したのだから、利益があり、大いに功徳があるのだ、と。

■お釈迦さまの最期
 
クシーナガルに着いたお釈迦さまはアーナンダにこう言います。

さあ、アーナンダよ。わたしのために、二本並んだサーラ樹(沙羅双樹)の間に、頭を北に向けて床を用意してくれ。アーナンダよ。わたしは疲れた。横になりたい。(同上p.125)

 いわゆる「北枕」で横たわられたのですが、中村元先生がインドのある知識人から聞いたところによれば、頭を北に向けて寝るというのは、インドでは今日なお教養ある人々の間では行われていることだそうです。北枕で右脇を下に向けて西に向かって臥すというのはインドでは最上の寝方であるとのことです。
 それまでお釈迦さまのそばにいつもいたアーナンダは、ついにわが師がお亡くなりになると思って「住居に入って、戸の横木によりかかって、泣いていた」といいます。これを聞いたお釈迦さまはアーナンダを呼び、こう言います。

やめよ、アーナンダよ。悲しむな。嘆くな。アーナンダよ。わたしは、あらかじめこのように説いたではないか、−−すべての愛するもの・好むものからも別れ、離れ、異なるに至るということを。およそ生じ、存在し、つくられ、破壊さるべきものであるのに、それが破壊しないように、ということが、どうしてありえようか。……アーナンダよ。長い間、お前は、……向上し来れる人(=ゴータマ)に仕えてくれた。アーナンダよ、お前は善いことをしてくれた。つとめはげんで修行せよ。速やかに汚れのないものとなるだろう。(同上p.137)

 お亡くなりになる当日、スバドラ(パーリ:スバッダ)という行者がお釈迦さまの死期が近いことを聞きつけて、お釈迦さまに会いに来ます。アーナンダはお釈迦さまは疲れているといって拒絶しますが、それを聞きつけたお釈迦さまはスバッダに法を説かれました。感銘を受けたスバドラは出家し、お釈迦さまの最後の直弟子となったといいます。
 お釈迦さまはアーナンダをはじめとする修行者たちに告げられます。「わたしが説いた教えとわたしの制した戒律とが、わたしの死後にお前たちの師となるのである」と。さらにしばらく法を説かれたあと、お釈迦さまはこう言われます。

さあ、修行僧たちよ、お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。おこたることなく修行を完成しなさい』と。(同上p.158)

 これがお釈迦さまの最後のことばであったと、経典は伝えています。仏教を開かれたお釈迦さまは、一人の人間として、安らかに最期を迎えられたのです。
 お釈迦さまの死を入滅
にゅうめつといいますが、これがいつであったかについても、やはりさまざまな伝承があります。中国・日本では「二月十五日」を入滅の日とし、<涅槃会ねはんえ>が催されます。

 お釈迦さまの遺体は荼毘(パーリ:ジャーペーティ、火葬)に付され、遺骨はマガダ国王や釈迦族などの8つの部族に分与され、それぞれストゥーパに納められ、供養されることになります。前にも触れたように、遺骨は後にアショーカ王がさらに分配し、八万四千のストゥーパが建てられたと伝説されます。

→お釈迦さま最後の旅については、『大パリニッバーナ経(大般涅槃経)』という経典にくわしく説かれており、中村元先生の和訳が『ブッダ最後の旅−大パリニッバーナ経』という書名で岩波文庫から出ています。上に引用した和訳も同書からのものです。



■クシーナガル
 
クシーナガルから東に22kmほどのところに鍛冶工チュンダが住んでいたパーパーと推定される村ファジルナガルがあります。この村から3kmほどクシーナガルに向かって西北方向に進むと、河があります。腹痛に苦しんだお釈迦さまがそこで水を飲まれたというククスター河(パーリ:ククッター河/カクッター河)であろうと想像される、ガクサー河です。

ファジルナガル村の風景
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ガクサー河
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 入滅の地クシーナガルには、僧院の遺構と涅槃堂があり、周囲にはチベット、中国、ミャンマーの寺院などがあります。

クシーナガル涅槃堂。
建物そのものは近年に
ミャンマー人が建てたも
の。中に涅槃像が安置
されている。
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涅槃堂に安置されたお釈迦
さまの涅槃像。全長6mほど
で、5世紀末のものと推定さ
れている。クリックして拡大

 涅槃堂に安置された涅槃像は全長6m以上もある巨大なもので、5世紀頃の作と推定されます。1833年に荒廃したこの像が発見され、修復されました。後にミャンマーの様式にしたがって金箔が貼られ、通常は黄色い絹の法衣がかぶせてあります。その穏やかな顔は、後の仏教徒たちがお釈迦さまの最期をいかに安らかなものとして受け止めていたかを示しているといえましょう。また、寝台にはヴァジュラパーニ、スバドラ、アーナンダなどの像が刻まれています。

涅槃像頭部
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寝台の頭部部分に
刻まれた嘆き悲しむ
アーナンダ
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■ラマバル塔(荼毘塚)
 涅槃堂から東方向に約1.5kmのところに、お釈迦さまの遺体を荼毘に付した(火葬した)とされるところがあり、そこには煉瓦で作られた、高さ10m、直径40mほどのラマバル塔(荼毘塚)があります。

ラマバル塔(荼毘塚)全景
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ラマバル塔アップ。線香、花
など、参拝のあとが見られる。
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◆◆◆

 クシーナガルの聖域のすぐ向かいにあるトラベラーズロッジに荷物を置き、一人涅槃堂に向かったときのことです。すでに陽は落ち、日中の暑さも観光参拝の人々も去り、それとともに静けさが涅槃堂を覆い出す頃です。日中に拝見した涅槃像に再び会おうと涅槃堂の中に入ると、そこには一人の若い比丘がいました。ネパールから来たパータリプッタという名の者で、上座部仏教を学習している。そのようなことを、穏やかに、しかし輝いた目で話してくれました。
 ほんの15分ほど会話をかわしたにすぎませんが、お釈迦さま入滅の地でこのように異国の仏教徒と出会う不思議を思うと、その時間がきわめて貴重なものに思われました。これこそまさしく仏縁による出会いという他はありません。考えてみれば、二千四、五百年前にお釈迦さまが仏教を開かれ、無数の有名無名の人々を介してその流れが今に伝わったからこそありえた出会いです。インド仏跡巡礼の旅ももう終わろうとするときに、このようにして、お釈迦さまという一個の人間がなされたことの大きさにあらためて感銘する機会を得られたことは、本当に有り難いことでした。願わくば、一人でも多くの方がお釈迦さまゆかりの地をおとづれ、仏教の魅力に触れられますように。

涅槃像に礼拝するネパール
僧、パータリプッタ師
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クシーナガル〜ゴーラクプル
途上での日没
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