阿弥陀経

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 阿弥陀経(小経)は、極楽浄土のありさまや極楽にまします阿弥陀仏などを説き、生ある者たち(衆生しゅじょう)は極楽への往生を願うべきこと、さらに宇宙の全方向の諸仏もお念仏のみ教えを勧めていることを説く経典です。
 同経には、サンスクリット語(梵語)原典が伝えられており、またそれからの二つの漢訳(中国語訳)やチベット語訳などがあります。このうち私たちが日ごろ読誦し、親しんでいるのは、中央アジア出身の鳩摩羅什くまらじゅう(クマーラジーヴァ)という人が西暦402年ごろに漢訳された『仏説阿弥陀経』です。

なお、「大意」の中に見られるカギカッコにくくられた数字は、梵語原典テキストに付けられた段落番号です。「大意」のどの部分が原典のどのあたりに相応しているかが、おおよそつかんでいただけることと思います。


【仏説阿弥陀経の大意】

 [1]私はこのように聞きました。あるとき仏(釈尊)はインドの舎衛国(シュラーヴァスティー)という国にある祇園精舎ぎおんしょうじゃに千二百五十人の修行者とともにおられた。

 [2]仏は修行者の一人である舎利弗しゃりほつ(シャーリプトラ)に向かい、こう言われた。−

 ここから西方、十万億の諸仏の国土を過ぎたところに『極楽』と名づけられる世界がある。そこには阿弥陀仏という仏がおられ、いま現在も法を説かれている。この世界は、一切の苦がなく楽のみであるから、極楽と言われる。
 [3-7]極楽にはさまざまなみごとな光景で飾られている。

 [8-9]阿弥陀仏というのは、その仏の光明が無量であり、十方の国を照らすのに障碍となるものがないから、『限りなき光明(無量光、アミターバ)』と言われる。またこの仏と、この仏の国土にいる人民の寿命が無量であるから、『限りなきいのち(無量寿、アミターユス)』とも言われる。

 [10]また、極楽国土には無量無数の菩薩たちがおられる。生ある者たち(衆生)は、その極楽国土に生まれたいと願いをおこすべきである。なぜなら、その国に生まれるならば、そのような善き人々とともに一所に会うことができるからである(倶会一処)。
 その国へは、わずかばかりの善行によってでは、往生することはできない。阿弥陀仏の名号をしっかりと取り保って(
執持名号)、あるいは一日、あるいはないし七日、一心不乱であれば、やがて人は臨終において心が顛倒せず、阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得るであろう。だから人はかの仏国土に生まれたいとの願いを起こすべきである。

 [11-16]さて、このように、いま私(釈尊)が阿弥陀仏の徳をほめたたえているように、東方・南方・西方・北方・下方・上方という六方の世界にまします、ガンジス河の砂の数(恒河沙数)ほどに多数の諸仏も同様に、『あなたたち生ある者たち(衆生)はこの一切諸仏に護念された経を信じなさい』とほめたたえておられる。

 [17]あなたたちはみな、このような私(釈尊)の語および諸仏の所説を信じ受け入れるべきである。
 もし人が、かの阿弥陀仏の国に生まれたいとの願いを既に起こしたならば、あるいはいま起こしつつあるならば、あるいは将来起こすであろうならば、その人はみな、この上ない正しいさとりを得ることからもはや退くことがなくなり、かの国土に既に生まれ、あるいは今生まれつつあり、あるいは将来生まれることであろう(
若有人、已発願、今発願、当発願、欲生阿弥陀仏国者、是諸人等、皆得不退転、於阿耨多羅三藐三菩提、於彼国土、若已生、若今生、若当生)。だから人はかの仏国土に生まれたいとの願いを起こすべきである。

 [18-19]時代の濁り・生けるものの濁り・偏見の濁り・命の濁り・煩悩の濁りという五濁あるこの娑婆世界の中にあって、この上ないさとりを得て、世間の人々のためにこのような信じ難い法を説くということは、私(釈尊)にとっても、甚だ困難なことである」−

 [20]このように仏がこの経を説き終わられると、舎利弗以下の聴衆は歓喜・信受し、礼をなしてその席を去った。




 この阿弥陀経について、親鸞聖人は五首の和讃(大和言葉でつづられた讃嘆のうた)でその大意を以下のようにまとめておられます。これらの和讃を見ると、親鸞聖人は、阿弥陀経から、ガンジス河の砂や塵の数ほどもの無数の諸仏が宇宙の全方向から南無阿弥陀仏の名号を称え信ずることを勧めている点を、特に汲み取っておられることが知られます。
 なお、阿弥陀経には、上のように、極楽往生の行として、阿弥陀仏の名号を執持して一日ないし七日一心不乱であることを説いており、したがって阿弥陀経は表面的には自力の念仏を説いているように見られます。しかし親鸞聖人は『無量寿経』の所説と比べて、阿弥陀経にも他力念仏の法が流れていると見られました。つまり阿弥陀経においても、お釈迦さまの本意は他力の念仏を説くことにあると親鸞聖人は理解されています。


【阿弥陀経の大意をまとめた親鸞聖人の和讃】

[和讃]

 

[真継伸彦現代語訳]

 

十方微塵じっぽうみじん世界の
念仏の衆生をみそなわし
摂取せっしゅして捨てざれば
阿弥陀となづけたてまつる(1)

全宇宙の無数の世界の中で、念仏している数かぎりない衆生をごらんになっていて、彼らのすべてを収めとり、捨てられることがない。それゆえ阿弥陀仏、すなわち「一切衆生を、妨害されることなく収めとりたもうみ仏」と名づけたてまつる。(1)

 

恒河塵数ごうじゃじんじゅの如来は
万行まんぎょうの少善きらいつつ
名号みょうごう不思議の信心を
ひとしくひとえにすすめたり(2)

ガンジス河の砂や、塵の数ほどにもおわしますみ仏たちはすべて、自力の修行を、善の少ないものとして嫌われる。阿弥陀仏の徳のすべてが含まれる不思議なる念仏をのみ信じよと、こぞって勧めておられる。(2)

 

十方恒沙ごうじゃの諸仏は
極難信ごくなんしんののりをとき
五濁ごじょく悪世のためにとて
証成護念しょうじょうごねんせしめたり(3)

全宇宙に数多おわしますみ仏たちは、きわめて信じ難い阿弥陀仏の他力念仏の教えを説かれた。五つの濁りに汚れた悪世界には、この教えを疑い謗る者のみが多い。み仏たちはそれゆえに、この教えの正しさを証明し、念仏する者を護られる。(3)

 

諸仏の護念証成ごねんしょうじょう
悲願成就のゆえなれば
金剛心をえんひとは
弥陀の大恩報ずべし(4)

 

すべてのみ仏が念仏する者を護りたまい、かならず往生できると証明されるのは、阿弥陀仏の第十七の、大悲の願が成就したことの現れである。それゆえに、金剛のように堅い信心を得たならば阿弥陀仏の大いなる恩を報謝せよ。(4)

 

五濁悪時悪世界
濁悪じょくあく邪見の衆生には
弥陀の名号みょうごうあたえてぞ
恒沙ごうじゃの諸仏すすめたる(5)

五つの濁りに汚される悪時・悪世界に住む、よこしまな考えをいだく濁悪の人びとのために、だれにもできる「南無阿弥陀仏」という念仏を、往生の行として与えられた。数多のみ仏たちも、念仏往生をすすめられる。(5)

 

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