雑記帳の付け足し

アバターとアヴァターラの距離(2004/3/13)

(以下に出てくるサンスクリット語のASCII文字体系での表記法については、ここをご覧下さい)

 少し前の話ですが、何気なく新聞を見ていたら、最近Yahoo!がサービスを開始しだして話題の「アバター」がサンスクリット語に由来すると書いてあって、あれあれ、と思いました。アバターとはアヴァターラのことか !?と。

 「アバター(avatar)」とは……と、文章で説明するよりも、実際にYahoo!アバターなどのサービスを見てもらった方が早いですね。通常、ネット社会でいう「アバター」とは、コンピュータ画面の中に登場させた自分の分身キャラクターを言いますが、Yahoo!ではその分身を使ってネットの仮想現実空間の中で遊ぶサービスのことも「アバター」と言っているようです。「Yahoo!アバター」では、従来のチャットやオンラインゲームのサービスのほか、さまざまなネット上のサービスに、自分の「アバター」(分身キャラクター)を登場させることが出来るようです。

 さて、このアバターの意味ですが、ちなみにオンラインの英語辞書(The American Heritage® Dictionary of the English Language)を見てみると、「ヒンドゥー教の神、とくにヴィシュヌ神が人間や動物の姿として顕現すること」と説明されていて、さらにそれがサンスクリット語のアヴァターラに由来していることがちゃんと示してあります。

 サンスクリット語のアヴァターラ(avatAra)は、文字どおりには「下方へ(ava)渡ること、到達すること(tAra)」を意味しますが、ここから、「(1)(特に神が天から)降臨すること。(2)神が地上に現れた姿(特にヴィシュヌ神が魚、亀、猪、人獅子、こびと、二人のラーマ、クリシュナ、ブッダ、カルキといった十種の主要な姿をとること)」といった意味が辞書に出てきます。アヴァターラとは、神が地上に「降りてくるという行為」を意味し、さらに地上に降りてとったさまざまな「姿」をも意味する、ということがわかれば、いまは十分でしょう。後者の意味としては、特にヴィシュヌ神のアヴァターラが著名であるとして、その9番目にブッダの名も挙がっています。仏教の開祖であるブッダをヴィシュヌの「アヴァターラ(化身・分身・権化)」と見なすことによって、仏教をヒンドゥー教の中に取り込んでしまおうというわけで、恐れ入るというか、仏教の側から見れば少々複雑な思いがします。もっとも、仏教の側も、梵天(ブラフマン)や帝釈天(インドラ)の例のように、ヒンドゥーの神格を仏教の庇護者として取り込んでしまうのですから、お互い様というべきですが。

 それはともかく、ここにきて大体わかりました。サンスクリット語のアヴァターラ(avatAra)は現代インド語の一つであるヒンディー語の読み方では最後の母音aが落ちてアヴァタールとなる。おそらくこれを英語でavatarと綴ってアヴァターと読んだのをカタカナにしたのが「アバター」であった、と。

アヴァターラ(avatAra)→アヴァタール→アヴァター(avatar)→アバター

 それでは、一体だれが、ネット上に活躍させる自分の分身キャラクターのことを「アバターavatar」と命名したのでしょうか。

 日本のコンピュータネット社会に「アバター」が正式に登場するのは、1990年1月26日に運営が開始された「富士通ハビタット(Habitat)」が最初で、これはインターネットが普及する前、パソコン通信と呼ばれるサービスが盛んだった頃のことでした。当時、富士通は「ニフティーサーブ」というパソコン通信サービスを行っていましたが、「ハビタット」を立ち上げることによって、従来の文字主体のコミュニケーションから進んで、「アバター」と「アバター」とがネット仮想現実空間上で「出会えるように」したのでした。

 ところで、この「富士通ハビタット」には本家がありました。1985年に開始された「ルーカスフィルムズ・ハビタット(Lucasfilm's Habitat)」がそれで、このご本家の「ハビタット」サービスを立ち上げた、チップ・モーニングスターランダル・ファーマーという二人の創始者こそ、ここに言う「アバター」の命名者なのでした(ちなみに、この二人は富士通ハビタットの立ち上げにも直接に関わっていたようです)。私は、「アバター」の命名者はてっきりインド系の人と想像していたのですが、この予想はみごとに破られました。二人の写真を見る限りでは典型的な白人のようで、それでは、どうして二人はアヴァターというインド起源の語を知り、使うことが出来たのかが疑問になりますが、どうもそこのところはよくわかりませんでした。

 「アバター」のことをGoogleですこし調べてみると、エドワード・カストロノヴァという人の「ヴァーチャル経済について」という論文が目にとまります。インターネット上の仮想世界(特にそのオンラインゲーム空間)の経済と現実の世界経済との関連について書かれたもので、その論旨は私の興味の範囲外でしたが、第二章「アバターゲームの略史」の部分はおもしろく読むことができました。実は上述の「アバター」がネット社会に最初に出るいきさつについても、ここから知り得たのですが、同論文は、さらに、このネット世界における「アバター」に先行するアイデアを従来のある種のゲームにまでさかのぼらせています。すなわち、著者は、まず「ゲームする人が、そのゲームのことを本質的に別の現実として見る」ようなゲームのことを「アバターゲーム」と名づけ、1985年にコンピュータネットワーク上に現れた「アバター」も「アバターゲーム」の一つの過程として位置づけようとするわけです。

 カストロノヴァさんの言う「アバターゲーム」とは、たとえば身近な例をあげれば、「すごろく」や「人生ゲーム」がわかりやすいでしょうか。複数の参加者は、ゲームという別の現実空間の中に棒きれなり紙切れなりを自分の分身として置き、互いに競い合いながら目的を達成させる……もちろん、ゲーム機器で遊ぶロールプレイングゲームのたぐいも「アバターゲーム」に入るでしょうね。著者によれば、このようにして別の現実の中に遊ぼうとする人間の興味は、それぞれの時代の技術に操縦されてきたとはいえ、非常に古い起源を持っており、「アバターゲーム」の発展史は紀元前2500年から説き起こすことができるといいます。自分の分身キャラクター「アバター」がネット上の仮想世界に入り、他の「アバター」と交流を図る、という「ハビタット」のアイデアは、このように、コンピュータが発明される以前の「アバターゲーム」にさかのぼりうるとされるのです(なお、論文には、紀元前2500年のバビロニアのゲームから1999年のオンラインゲームにいたるまでの「アバターゲーム」の展開が系統的に図示されていて、これがなかなかおもしろい。興味のある方はご覧下さい)。

 さて、このようにして、1985年開始の「ハビタット」のサービスがいわゆる「アバターゲーム」の系譜に位置づけられるにしても、ゲーム空間ないしネット空間というもう一つの現実上に投影させた自分の分身のことを「アバター」と名付けたのは、モーニングスターとファーマーの二人が最初でした。おそらく彼らは、「ハビタット」というネット上の仮想現実空間においては誰もがヴィシュヌ神のような化身能力を持つことができるという楽天的な発想から、「アバター」という耳慣れない語を用いたにすぎないのでしょう。しかし、まさにこの時、アバター(の語)そのものが急激に世俗化したと言わねばなりません。「ハビタット」のネットサービスに現れる「アバター」は、参加メンバー達が相互にコミュニケーションを図るためだけの目的に使われるものであって、「人々を救済したり勧善懲悪のために聖なるものが俗なる世界に顕現すること、あるいは顕現した姿」という、アヴァターラが本来持っていた宗教的な意味合いをほぼ完全に消失させてしまったのです(付け足すならば、このように「アバター」が世俗化したからこそ、カストロノヴァさんの「アバターゲーム」という語も出てきたわけですね)。

 「アバター」の例に見られるように、いままさに急激に進展しつつある科学技術は、昔ならば人間を超えた存在のみが特権的に持ちうると考えられていた能力を、(まだ不完全な形であれ、)だれでも所有したり享受できるようにしています。いまや地球の裏側の人とでもテレビ電話で会話することもできれば、137億年前の銀河の姿や極微細な世界や、あるいは生きた人間の断面図さえ見ることもできる。さらには、遺伝子操作などとということも、すでに身近な話題になってきている……本当に私たちは、科学の力によって、いつのまにか超能力を身につけてしまったようです。ただしその超能力の使い方についての規範が見つからなくて、混乱しているのが現状というべきなのでしょう。

 このように書いていると、「アバター」というネットサービスについて、私が批判的であるように受けとられるのではないかと思われますが、しかし実のところは、ほとんど興味がないというのが率直な感想です。私は、ネット上の仮想現実空間に自分の分身キャラクターを「顕現」させてみたいと全然思わないし、またその必要もいまのところまったく考えられません。さらに最新のテレビ電話機能付き携帯電話には、自分の顔の代わりに「アバター」を相手に見せる機能(ドコモは「キャラ電」と名付けているようです)もあるようですが、それのどこが有用ないしおもしろいのか、私には今のところさっぱり理解できません。

 しかし、新しい技術には予想を超えた可能性がありうることも、否定できません。「アバター」を使ったコミュニケーションによって、どんなすばらしい可能性が開けてくるとも限らない。要するに、アバタは使いよう、ということで……失礼しました!


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